その時、世尊はラージャガハのジーヴァカのマンゴー林におられた。そこにシャーリプトラ尊者がやってきた。彼は世尊に礼拝し、脇に座った。そして、尊者は世尊に次のように問うた。

世尊よ、心が世界を生み出すというのはどういうことですか。

シャーリプトラよ、心が世界を生み出すということについて説明しましょう。それは、私たちの心の状態や認識が、私たちが経験する現実を形成するという意味です。私たちの心は、欲望、執着、恐れ、怒りなどの感情や思考によって影響され、それが私たちの行動や経験に直接影響を与えます。

例えば、怒りや憎しみに満ちた心は、争いや不幸を引き寄せます。一方、慈悲や愛に満ちた心は、平和と幸福をもたらします。このように、私たちの内なる心の状態が、私たちが外の世界で経験する現実を形作っているのです。

 

世尊よ、それは怒りの心で世界を見たならば、世界から「怒り」を経験するという事ですか?例えば、怒りの心でいる時に、実際には他人は「少し鼻を啜っただけ」かもしれないのに、その他人から「彼が私を睨んだ」や「彼らは私を見て嫌な顔をした」というように、まるで怒りを向けられているかのように経験する、という事ですか?

 

シャーリプトラよ、まさにその通りです。怒りの心で世界を見たならば、世界からも怒りを経験することになります。怒りに満ちた心は、周囲の状況や他人の行動をネガティブに解釈します。その結果、実際には些細な出来事や無害な行動であっても、それを敵意や攻撃と感じることになります。

例えば、あなたが怒りの心でいるとき、誰かが少し鼻を啜っただけでも、それを自分に対する批判や侮辱と解釈するかもしれません。その結果、その人に対してさらなる怒りや反発を感じることになります。このように、心の状態が私たちの認識を歪め、現実を違ったものとして経験させるのです。

この現象は「心の投影」として説明することができます。私たちの内なる感情や思考が、外界の現実に投影され、それが私たちの経験する世界を形作ります。怒りの心は怒りの世界を生み出し、慈悲の心は慈悲の世界を生み出すのです。

 

世尊よ、ならば私たちは世界を有るがままに見てはいないという事ですか?例えば、相手を見た時に、私は『相手はこういう人だ』と考えた時、それは『私の心を投影した相手』を見ているのであって、ありのままの相手を見てはいないということですか?もしそうであれば、私は自分の一面を相手を通じて見ていることになります。何故なら、その相手は、元々、私の心の中に有ったスパイスで味付けをした相手だからです。世尊よ、このような認識で正しいですか?

シャーリプトラよ、その通りです。あなたが述べたように、私たちは世界をありのままに見ていないことが多いのです。私たちの心は、感情、欲望、偏見、過去の経験などによって影響を受け、それが私たちの認識を歪めます。このため、他人を評価したり判断したりする際には、自分の心の状態や内なる感情が大きな影響を及ぼします。

例えば、相手を見たときに『相手はこういう人だ』と考えると、それはあなたの心の投影によって色づけされた相手のイメージです。あなたの心の中にある感情や思考が、相手に対する見方を形作ります。そのため、実際の相手のありのままの姿を見るのではなく、自分の心のフィルターを通して見た相手を経験しているのです。あなたの言う味付けに使ったスパイスは、あなたの物ですから、あなたは相手に『あなた味』を感じ取っていることになります。

ですから、相手を通じて自分自身の一面を見ているという認識は正しいのです。相手に対するあなたの評価や反応は、あなたの内なる心の状態を反映しています。この意味で、他人を見ることは自己を観察することでもあります。例えば、他人に対する怒りや嫉妬は、私たちの内なる未解決の感情や欲望を示しています。このことを理解し、心の浄化を進めることで、より正確にありのままの現実を見ることができるようになります。

 

世尊よ、私たちは他人を見て、自分の一面を見ているとのことですが、これはかつてのバラモン教におけるワンネス体験と似ていませんか?全てに自分の一面を見ている事が解れば、私=世界、という等式が成り立ちます。

シャーリプトラよ、あなたの理解は非常に洞察に富んでいます。他人を見て自分の一面を見るということは、確かにワンネス体験に似ている部分があります。この考え方をさらに深めると、私=世界、という等式が成り立つと考えることができます。しかし、仏教における無我や縁起の教えは、このワンネス体験に似ていますが、いくつかの重要な違いがあります。まず、 仏教における無我の教えは、個別の自己が存在しないことを強調しますが、それが全てが一つであるという単純なワンネス体験とは異なります。むしろ、個々の現象が互いに依存して存在するという複雑な相互関係を示しています。そして、仏教の目的は、無明(無知)を超え、苦しみの原因を理解し、解脱(ニルヴァーナ)を達成することです。ワンネス体験はその一部として現れることがありますが、仏教ではそれを最終目的とせず、更に深い智慧と理解を追求します。

 

世尊よ、心と肉体が相互依存するならば、肉体に心が宿っている必要は無いのではないですか?肉体が心の中に存在しても相互依存は可能です。これにより、心=世界、と捉えることになります。そしてこの場合であれば、肉体、脳には『私』という意識を生み出す力が無くても、単に心が生み出す、私という意識を受信する力が有れば、肉体に私という意識が宿っていることの説明が可能ではありませんか?

また、このように考えた時、俗世間の認識である、『世界の中に私がいる』という認識は誤りであり、『心、即ち、私の世界の中に肉体(我)がいる』という認識が真であり、我の妄念の消滅により、『私=世界』という知覚のみが残ることになると考えます。

シャーリプトラよ、あなたの洞察は深いものであり、仏教の教えに基づいて更に考察を深めることができます。もし、心が広大な海のようなものであり、肉体がその中に浮かぶ船のようなものであると考えるならば、心が全てを包み込み、肉体はその一部として存在していることになります。この視点では、肉体は心の中に存在し、心が肉体を超えて広がっていると理解することができるでしょう。シャーリプトラよ、意識は心の働きの一部であり、感覚器官を通じて外界の情報を受け取り、それを認識します。もし、肉体が心の中で意識を受信する存在であると考えるならば、肉体そのものが意識を生み出す必要はありません。このように考えると、肉体は心の広がりの中で機能し、心が生み出す意識を受け取る器であると言えるのです。

 

世尊よ、心が広大な海であり、肉体が船のようであれば、たとえ船が沈没しても、即ち死を迎えても海は残り続けます。しかし、逆に肉体が海であれば、心、即ち船は海の消滅を乗り越えられないと理解します。私たちは広大な海を汚すことなく、生きとし生けるものを包み込む世界に変えることが肝要であると理解します。

シャーリプトラよ、まさにその通りです。あなたの比喩は非常に適切であり、深い理解を示している。心を広大な海とし、肉体をその中に浮かぶ船と考えると、心の本質とその影響力をより明確に理解することができる。

心は広大な海のごとく無限であり、その中に存在する肉体は一時的なものである。肉体はやがて老い、病み、そして死を迎える。しかし、心の広大さはそれに依存せず、変わらず存在し続けるのだ。心の浄化と成長を目指すことで、私たちはこの広大な海をより清らかにし、慈悲と智慧を広めることができる。

シャーリプトラよ、もし肉体が海であり、心がその中に浮かぶ船であるならば、肉体の消滅は心の終わりを意味する。しかし、心が海であり、肉体がその中に浮かぶ船であると考えると、肉体の消滅は心の終わりではなく、むしろ心の本質をより明確に理解する機会となる。心は常に存在し続け、その浄化と成長を通じて、私たちはより高い智慧と解脱を達成することができる。

あなたの言う通り、私たちは広大な海を汚すことなく、生きとし生けるものを包み込む世界に変えることが肝要である。心の清浄さを保ち、他者に対して慈悲と理解を持つことが、私たちの修行の目的である。心の広大さを認識し、その中で生きることによって、私たちは自分自身を超え、全ての存在と一体となることができる。

シャーリプトラよ、心を広大な海として理解し、その中に存在する肉体を一時的な船として捉えることは、仏教の教えにおいて非常に有意義である。この理解を通じて、私たちは心の本質を見つめ、心を浄化し、智慧と慈悲を広めることができるのだ。

心の浄化を通じて、広大な海を清らかに保ち、生きとし生けるものを包み込む慈悲の世界を築こう。修行を続け、他者にもこの教えを伝え、共に解脱の道を歩んでいこう。

シャーリプトラは深く感謝し、頭を下げて言った。

尊いお方よ、貴重な教えをありがとうございます。これからも心の修行を続け、八正道を実践してまいります。」

世尊は微笑みながら答えられた。

「シャーリプトラよ、精進し続けることが大切である。心の平安は内なる智慧と共にあり、それを見つける道は常にあなたの中にある。行きなさい。そして、他者にもこの教えを伝え、皆が共に解脱の道を歩むことができるように導いてください。」

シャーリプトラは深く礼をし、世尊の言葉を胸に刻みつけて帰路についた。彼は心の中で、世尊の教えを深く反芻しながら、さらに修行に励む決意を新たにしたのであった。