佐藤老人は、小さな田舎町に住む70歳の男性だ。彼は昔から「怒りっぽい」と評されていた。些細なことでも、すぐに怒りが吹き上がる。近所の人々は、彼の怒りの爆発を恐れ、できるだけ関わらないようにしていた。妻の美代子とは、結婚してから50年以上経つが、近年はほとんど口をきかなくなった。子供たちとも疎遠になり、訪ねてくることはめったにない。

庭の花壇事件

ある日、佐藤老人は庭の花壇を手入れしていた。花の配置を変えようと新しい計画を立てた美代子が「この花をもっと中央に置いて、こっちの花を端に移そうと思うんだけど、どうかしら?」と提案した。瞬間、佐藤老人はカッとなり、「この配置が一番なんだ!勝手に変えるな!」と声を荒げた。美代子は驚き、悲しそうな顔をしてその場を離れた。

孫たちの訪問事件

また、孫たちが訪ねてきた日のこと。佐藤老人は、孫たちが楽しめるようにいくつかのゲームを用意して待っていた。ところが、孫たちは自分たちが持ってきたゲームで遊びたがり、佐藤老人の用意したものには見向きもしなかった。「おじいちゃん、これよりこっちのゲームの方が面白いよ!」と言われた瞬間、彼の中に怒りが沸き上がった。「お前たちはせっかく用意した俺の気持ちを無視するのか!」と大声で怒鳴りつけた。孫たちはびっくりして泣き出し、その日は早々に帰ってしまった。

食事メニュー事件

食事の場面でも、佐藤老人の頑固さは現れていた。毎日の夕食は彼が決めたメニューでないと気が済まなかった。ある晩、美代子が新しいレシピに挑戦してみたところ、佐藤老人は一口食べただけで顔をしかめ、「こんなもの、俺の口には合わん!」と皿を放り投げた。美代子は涙を浮かべ、黙って皿を片付けた。

 

怒りが湧くメカニズムは複雑であり、簡単には理解できませんが、基本的には自身の「我に挑戦された時」に怒りが吹き上がってきます。私たちは自身の我に整合しない事態に対して苦しみを感じます。そこで我を守ろうとする働きがあり、謂わばその親衛隊として咄嗟に出てくるものが怒りです。

人は自身の期待が裏切られた時、欲が邪魔された時に我に挑戦されたと感じます。また、私たちは日常そのものにも我が付いており、これまでの日常がこれからも続くことを期待します。

少し前に例の疫病が流行った時に自粛期間が有り、多くの人が日常の変化を余儀なくされました。結果、多くの人の我が挑戦を受け、イライラして怒りに苛まれる人が出てきました。家庭内暴力が問題になり、コロナ離婚なんて言葉も出てきました。

佐藤老人は我が非常に強く、花の配置を少し変えたり、普段食べ慣れない物が出てきただけで、自身が日常に付けている我が挑戦されたと感じたのです。

また、孫たちが自身の用意したゲームで遊ばなかったことも彼の期待を裏切るものでした。

期待する心は、固定的な自己(我)への執着と同じく、無明から生じます。この無明を取り除くためには、物事の無常性を深く理解し、受け入れることが重要です。

 

無常とはすべての現象は変化し、常に同じ状態を保つことは無いという事です。ですから変わらない日常も、裏切られることのない期待も、無常という真実の前では、あまりに脆弱なのです。そしてこれが、私たちが怒りに対して脆弱な理由でもあるのです。

仏教が、物事が常に変化し続けること、固定的な自己が存在しないこと、そして執着や欲望から離れることが苦しみからの解放につながると教えるのは、このような理由が有ったのです。

そしてそのための実践法として、呼吸法の実践、慈悲や感謝の心を持つこと、瞑想の導入などが挙げられますが、これらは一朝一夕で為せるものではありません。

もし、自身への期待から、不甲斐ない自分を責めるようなことがあれば、それもまた怒りに他なりません。まるで薄皮を少しずつ貼り合わせていくように実践し、10の怒りが9に減ったとしたら万々歳なのです。

皆さんが怒りに対して前向きに実践し、よりよい人生を歩まれることを願っています。